「セッション」を評価しない理由
ララランドがめちゃめちゃ人入ってるらしいので見に行くか、ということで、予習ついでに「セッション」を見ました。すごいざっくりあらすじを書くと、「音楽学校に通っているドラマーの主人公が教師のスパルタ教育を乗り越えてその教師を見返す」みたいな感じでしょうか。
ただ、結論から言うとぼくはこの映画、あまり評価できませんでした。
ここから最後まで全てネタバレするので、未見の方はご注意下さい。
菊地成孔vs町山智浩論争について
公開当時、ジャズに限らず広いジャンルで活躍しておられる菊地成孔さんと、映画評論家の町山智浩さんの間で議論が起きていました。菊地さんのブログからは当時の記事が消えているようなのですが、町山さんの方は残ってるので、なんとなく雰囲気はつかめるかと思います。
菊地成孔先生の『セッション』批判について - 映画評論家町山智浩アメリカ日記
『セッション』菊地成孔さんのアンサーへの返信 - 映画評論家町山智浩アメリカ日記
菊地さん側の主張(と思われるもの)をざっくりまとめると、
- ドラムが下手である(速度ばかり気にしてグルーヴとかがない)
- 選曲のセンスがない、ジャンルぐちゃぐちゃ
- 作中で描かれるジャズ観が白人的である
あたりでしょうか。
個人的には1は映像としての見せ方を考えた結果(グルーヴがない!って映像としては見せづらい)ではないか、というのと、23についてはぼくがジャズ史に詳しくないのであまり語れないのですが、上記のブログを見ていただけるとスムーズかもしれません。
では何が問題だったのか
なんか…脚本がめっちゃふわっとしてるんですよね…。中盤からストーリーの軸とか支点みたいなところがどんどん曖昧になっていくんです。
転換点になるのが主人公が事故にあうあたりからでしょうか。コンテスト直前、向かってる途中でバスがパンク。レンタカーを借りて何とかたどり着こうとするところでトラックと衝突してしまいます。なんとか会場には着くんですが、血まみれで服もはぼろぼろのやつが上がってきたら普通止めるでしょ?
当然うまく叩けずで、それを見た教師が「お前はもう終わりだ」って言うんですね。逆ギレした主人公が教師につかみかかって退学になってしまいます。主人公の父親はそれに腹を立てて、主人公を守るために過度な指導はなかったかを聞き告発することで、最終的には教師は罷免されてしまいます。
その後偶然街のバーで主人公と教師が再会し、過去の非をある程度認めるような発言をしつつも、「チャーリーパーカーは上手い演奏が出来なくてシンバルを投げつけられたからこそ死に物狂いで練習をしてああなった。そこで上出来だって言われてたらチャーリーパーカーはそのままだった」というふうな事を言います。この辺だけ見ると確かにそうか、とも思えるかもしれません。その後に自分が指揮をしている別のバンドのドラムに主人公を勧誘します。
これで終われば和解の話なんですがさらにどんでん返しがあり、そのステージ上で突然みんなが知らない曲を演奏しはじめます。歩み寄る教師が鬼の形相で「密告者はお前だな」と言って、主人公は当然合わせられなくてがたがた。
と、ラスト直前までストーリーを書いてしまいましたが、事故と本音を語るシーンとどんでん返しのシーンってストーリー上噛み合ってないんですね。特に最後の演奏ががたがたになるところは指揮者としてはどう考えても「あいつの指揮がだめだったぜ」っていうデメリットの方が大きいし、主人公を潰すための悪役として描かれるならバーのシーンは別に要らなかった。やっぱり軸が通ってない感じがするんですよ。
次のチャーリーパーカーは、自分が下手な演奏をしてしまったら猛特訓を始めるかもしれない。殴られても椅子を投げつけられても次の日には立ち上がっているかもしれない。でも事故はあくまで事故だし、曲を教えないなんてのは単なる低レベルな嫌がらせじゃないですか。おれそんなんされたら普通にキレて帰りますよ(笑)。
どこかは失念しましたが「実は主人公は交通事故で死んでてその後は全部夢なんじゃないか」って書いてあるブログがあって、さすがにありえなくて笑ってしまったのですが、そのくらいなんだか現実味がないのも確かです。
その後にラストシーンを迎えるのですが、がたがたになって一度は降りたステージに再度向かう主人公、「指揮なんか知るか」とばかりに勝手にドラムソロを叩きだして「合図するから合わせてくれ、曲はキャラバンだ」っていって完璧なドラムを叩く。それを見て微笑む教師。最後の曲、恐らくは原題にもなってるwhiplashが始まろうとする、指揮者が腕を振り下ろすシーンでしめ、という流れです。
町山さんは
先生はまたうなずきます。わかった。お前の怒りはわかった。悪かった。悔しいが認めよう。お前の勝ちだ。
二人は思わず微笑んで見つめ合います。
格闘家たちがパンチを交わし合い、技をかけあった戦いの果てに世界のすべてを忘れてしまうように。
楽しい。
音楽は楽しいんだ。忘れてた。
学校なんかどうでもいい。もう、憎悪も恋の悲しみも敗れた夢もふっとんだ。いま、演奏しているのが楽しい。
と書いておられますが、ぼくにはどうもそうは見えないんですよ。なんていうか、憎い憎いあいつに何とか復讐できたけど自分の手は血で汚れてしまった、みたいな。相手を見返してやろうみたいな、何か暗い欲望しか感じないんですよね。
例えばここで「早さばかり求められてたけど、実はバンドとの一体感、フィーリングがぴたっと合う、そういうことの方が重要なんじゃないか、っていうラストであれば分かります。鬼教師の教えを自分の中で昇華させてるわけです。ぼくも昔バンドやってたので音がハマる気持ち良さは分かりますし、DJやってて曲と曲が組み合わさって新しい曲みたいになった時の多幸感みたいなものも分かります。
でもこの映画でやってることはそうじゃない。長々と勝手にドラムソロをやってバンドを仕切りはじめて、技術で相手を上回るってだけ。叩きのめしたいだけなんです。一人で勝手に先走ってるだけなのにセッションって言うのかよっていう(笑)…まあセッションは邦題なんですけどね。
菊地先生のおっしゃる「グルーヴの神」が降りてきたのです。物語においては。
断言してもいい。音楽の神はそんなところにはいない。拍と拍の間に、ブレッシングの後ろに、長い長いリバーブの後ろに、静かに微笑んでいる。
良いところもあったよ
カメラワークは凄かったよ
静と動の切り替えとか、シンバルについた汗とか、体から飛び散る汗までとらえたカメラはすごく良かったです。
最後の方でドラムと指揮者の手を交互にパンして写すシーンがあったのですが、どんどん早くなっていくテンポにぎりぎりでカメラが追いついていて、見ている方のテンションも上がるというすごいシーンでした。
演技もよかったよ
鬼教師、フレッチャー先生を演じるJKシモンズは怪演といいますか、ものすごい怖かったですね。ぎりぎりサイコパスかそうじゃないか、くらいの。
主人公のマイルズテラーもいいですね。鬱屈した感じがありました。ドラムは元々やってた上に毎日練習して、さらに劇中で手を血まみれにしながら叩いているシーンは血のりとかじゃなくて実際の血だそうです。
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